第二次世界大戦中の昭和18年中頃、戦況の悪化による資材不足のなか、増大する軍需貨物列車に対応するため徹底した戦時設計車両の製造が計画されました。その中で誕生したのがここに紹介するEF13形です。最初は国鉄電機としては他に例を見ない凸型の車体でしたが、後に旧EF58形の車体振り替えに伴い、余剰となった車体を譲り受け、箱形車体に生まれ変わりました。
凸形EF13は徹底した戦時設計が行われ、鉄板の厚さを2.3mmから1.6mmにし、車体を凸型にしたことで約7トンもの鉄の節約、配管などでも鋼、銅の節約がされ、粘着重量の不足分は計画的にコンクリートの死重が積まれました。また、機器についても材料不足や当時の低下した工作水準から、製作の難しかった高速度遮断機の搭載をあきらめ、断流器としたり、弱め界磁制御の省略、通電部分の銅を鋼に、パンタグラフも鋼板枠使用のバネ上昇式のPS13とするなど、短期使用を考慮した仕様となり、結果として従来の標準型に対してゼロから設計が見直されることとなりました。そこで、培われた内容は、戦後の新性能電機を生み出す上での貴重な経験となっています。
このように、元々「戦争中持てば良い」と言うことで作られた機関車でしたが、昭和20年8月の終戦までに落成したのはわずか7両でした。その後は極度に資材が不足した中、戦後の復興を担うと言う全く新しい目標に向けて合計31両が製造されました。しかし、前述の様に徹底した材料節約、加工精度の低下からトラブルが続出し、戦後、やはり準戦時設計で製造されたEF15、EF58の一次形と共に欠陥機関車のレッテルを貼られ、乗務員の乗務拒否問題まで引き起こしましたが、終戦後3〜4年後に高速度遮断機の設置などの装備改造が行われ、パンタグラフもPS14に変更されるなど次第に安定した性能を発揮するようになり、東海道、上越、中央の各線で活躍しました。
その後、雨漏りと制御装置復活に伴う車体スペースの不足の問題から、偶然同じ31両だった旧EF58形のSG取付による新車体への交換に伴い、昭和28年より順次特徴ある凸型車体から旧EF58の車体に振り替えられました。なお、EF13とEF58では台車の心ザラ間距離がEF13の方が100mm長いため、EF13の台車の下ザラを先の曲がった物にして対応しています。
こうしてEF58から車体を譲り受けたEF13は、当初の設計思想とは裏腹に、戦後生まれのEF15やEF58と共に高度経済成長の一端を担い、国鉄標準型として中央線や首都圏を中心に黙々と働き続けました。そして、製造から35年経った昭和54年(1979年)に最後の1両の24号機がひっそりと引退し、その波乱に満ちた生涯の幕を閉じました。