寝台特急「出雲」 想い出アルバム
 
Update 2006.3.23

2006年3月17日をもって東京と山陰を結ぶブルートレイン「出雲号」が引退しました。母方の実家のある島根県への毎夏の帰省には、急行時代から基本的に「出雲号」を利用しており、私にとって幼い頃から最も身近な列車でした。そして、私が鉄道に興味を持ったきっかけも「出雲」に乗った時の体験でした。

それだけに今回の廃止は非常に残念ではありますが、時代遅れの設備、長時間拘束されるにも関わらず満足な供食サービスも無い状況では正直廃止も致し方ないと思いました。

ここでは「出雲号」の歴史と言うには大げさですが、時代時代の姿を私が撮った数少ない写真でご紹介したいと思います。

それにしても昨今のブルトレ廃止の傾向は少々行き過ぎの気もしないではありません。採算を考えればごく一部の列車以外は廃止もやむを得ないところでしょうが、一利用者としてはゆっくりと移動を楽しめる列車も選択肢として残して欲しいと願わずにはいられません。

1976年8月撮影 回2001レ 東京
EF65Pに牽かれて新橋方から東京駅12番線に入線する「出雲」。 後ろはオリジナルの24系。隣の10番線には総武線乗り入れ前の横須賀線が停まっています。(サロの帯も懐かしい…)
この頃はまだ「いなば」が健在で「出雲」は1本でした。これは夏休みの帰省で乗車前に撮ったもの。この頃の寝台特急はまだまだ人気が高く、行楽シーズンや帰省シーズンともなると寝台券発売(当時は乗車1週間前)前夜から徹夜で駅に並ばないと、とても切符の確保ができませんでした。その中でも「出雲」はまさにプラチナチケットで、そこまでしても取れない事がしばしばで、仕方なく「あさかぜ」を利用して伯備線経由で帰省した事もありました。
1976年8月撮影 2002レ 松江
高架工事たけなわの松江駅を発車。24系時代の「出雲」には24系登場時の電源車・マヤ24を改造したカヤ24が使用されていました。カニ24よりも優しい顔つきで、私はこちらの方が好みでした。「出雲」に24系が使用されたのは1975年3月から翌1976年9月までのわずか1年半でした。
カヤ24については「草津に住む大阪人さん」から以下の解説を頂きました。
「1973年にマヤ24として大ムコに10両新製配置されました。1975年3月10日の山陽新幹線博多開業の改正時に新聞等を積み込める様に改造されたので重量記号がマからカになったのです。1〜8は大ムコに残留し「彗星」「明星」に、9〜10は南シナに転属し「出雲」に各々充当されていました。後者は予備車がないので、検査時はカニ24が代役を勤めた筈です。」
1976年8月撮影 4003レ 米子
50.3改正で「出雲」を補完する目的で設定された東京〜米子間の寝台特急「いなば」。終点の米子に到着の姿です。同列車は53.10改正で出雲市発着に変更され「出雲3・2号」に改められます。東京〜名古屋間は紀勢線の寝台特急「紀伊」と併結なのは「紀伊」廃止時まで変わりませんでした。客車は14系で、もちろんオリジナルの3段寝台。
1979年5月撮影 2001レ 有楽町
東京を発車し有楽町をゆっくりと通過。編成は24系25形になっています。この頃はまだ東京発が18:20で、陽の長い季節には東京近辺で走行写真も撮影可能でした。
この前年の53.10改正で「いなば」が出雲市まで延長され「出雲」に改名。「出雲1・4号」(東京〜浜田)、「3・2号」(東京〜出雲市)の2往復になり、この体制がその後長く続く事になります。
東京〜京都間の牽引機は「1・4号」がEF65PF、「3・2号」は「いなば」同様EF58でした。それにしても、この写真の組み合わせがよもや28年も続くとは…。
同じくスピードを上げながら有楽町を駆け抜ける。まだまだ新車の輝きを保つオハネフ25-100のバックサインは文字のみです。
1979年11月撮影 2002レ 大森―大井町
大森〜蒲田の公園横を行く「4号」。EF65PFが東海道ブルトレを牽引する姿もすっかり板に付いてきました。
1979年8月、「出雲1号」に乗車した際に撮影した写真が何枚かありましたのでご紹介します。当時のカラーフィルムはISO(ASA)100がまだまだ主流で、画質的にはつらいものもありますが、ブルートレイン全体にまだまだ活気があった頃の雰囲気を感じて頂ければ幸いです。
東京駅12番線で発車を待つ「出雲」。オハネフのバックサインが絵入りのものになっていますが、確かこの年ぐらいからだったように思います。車掌室窓もオリジナルの白Hゴムで、近年の黒Hゴムとは異なり良いアクセントになっています。
電照式のサボには浜田の文字が誇らしく浮かびます。この頃既に特急の大衆化が進んでいましたが、東京発のブルートレインにはまだまだ威厳が感じられました。東京駅のアナウンスでも「寝台特別急行列車「出雲号」浜田行き…」と、特別な存在として案内されていました。
18時20分、夕闇迫る東京駅第6ホームをはるか山陰に向けて出発します。カンテラを持った駅員氏が数人、列車を見送る姿が印象的です。お隣13番線には「出雲」の5分後に発車する「あさかぜ1号」の姿が見えます。
この時間帯の12・13番線ホームは矢継ぎ早に旅立つブルトレ群とその乗客、見送り客などで実に活気に溢れていました。ちなみに16時30分発の「さくら」に始まり2時間の間に「みずほ」「はやぶさ」「富士」「出雲」「あさかぜ1号」と6本のブルトレが次々に出発していきました。
静岡県内のどこかの駅でしょうか…。EF65(おそらく500番台)牽引の貨物列車と一瞬のすれ違い。
食事のピークが過ぎた食堂車では専務車掌氏とウェイトレスが談笑中。この当時でも味気ないと評されたオシの内装ですが、それでも暖かい食事を車内で採れる安心感はかけがえのないものでした。窓辺の一輪差しがテーブルに華を添えます。
21時47分浜松着。減光された車内は既に深夜の雰囲気です。ホームの端っこと言うこともあるのでしょうが、ホームにも人の気配がありません。この静寂な雰囲気は夜行列車、それも寝台列車独特のものですね。
闇夜に煌々とライトの輝きを放つ操車場を通過。
度重なる貨物列車の削減が行われていた国鉄時代晩年でも、まだまだ大規模な操車場が各地にあり、単調な深夜の車窓の良いアクセントになっていました。闇の中に突然浮かび上がる光の洪水はとても幻想的でした。
23時11分名古屋着。数分後、後続の「あさかぜ1号」が隣の番線に到着。始発の東京駅から5時間後の再会です。まだまだ宵の口ですがホームはすっかり深夜の印象です。
深夜の京都駅2番線に運転停車。照明の消えた誰もいないホームに電照式の案内板の光だけが輝き、何だか自分だけが異世界に迷い込んだような不思議な感覚を持ったものです。ホームの向かいには翌日の始発電車となるブルーの103系が静かに横たわっています。

早朝5時半、黎明の鳥取到着。人気の少ないホームには下車した女性客の姿が…。ブルートレインがまだまだ一般に認知されていた証でしょうか。
夜が明けると、前夜の東京から一変した長閑な光景が車窓に展開されます。通過の青谷駅では旧客の普通列車529レを追い抜きます。茶色の旧客は60系?上屋の無い純和風の駅に旧客がマッチしてます。
朝の湿った空気を切り裂いて「出雲」はひた走ります。紫煙を吐きながら力走するDD51の姿が頼もしいですね。
6:12倉吉到着。倉吉線のキハ3連とキハ20単行がお出迎え。倉吉線は1985年に廃止されています。
大山口通過。上り522レと交換です。目覚めると異国の地を走っている…と言う感動は、やはり夜行列車ならではのもの。つくづく遠くに来た事を実感します。この後、私は松江で下車しました。
1980年8月撮影 4003レ 餘部

ご存知餘部橋梁を行く「出雲3号」。まだ鉄橋上の防風柵も少なくすっきりしていました。

ヘッドマークが無いのが寂しいところですが、東京区のEF65以外は全てのブルトレのヘッドマークが無い時代でしたので仕方ありません。

ヘッドマークの復活は昭和60年(1985年)のこと。残念ながらその頃にはほとんど鉄ちゃんから離れており、島根の田舎に帰省する機会もほとんど無くなった事もありヘッドマークを付けたDD51の姿は数えるほどしか撮っていません。

この餘部橋梁通過を旧客の最後尾デッキで各ドアを開け放して眺めた事がありますが、まるで天空を舞っているような感覚でした。
1980年8月撮影 4003レ 餘部
同じく餘部橋梁を渡る「3号」。牽引は若番のDD5124。なんでこちらのアングルをカラーで撮らなかったんでしょうね〜。
1980年8月撮影 2002レ 玉造温泉―乃木
電化ポールが立ち始めた宍道湖畔を行く「4号」。それでも電化前はこの辺りもまだまだすっきりしていました。
1980年2月撮影 2002レ 真鶴―根府川
大幅な遅れにより根府川でキャッチできた「4号」。冬場の「出雲」は遅れる事が多かったと思いますが、現在のようにネットも携帯電話も無い時代、撮れたのは「たまたま」です。ブルトレブーム真っ盛りの頃。
1980年9月撮影 回2004レ 田町
「出雲」の牽引機としてはEF58も忘れてはいけません。田町を行く鋳鋼製先台車の5号機牽引の「出雲2号・紀伊」(回送)。「いなば・紀伊」時代から同列車の牽引は浜松区EF58の担当でした。他の東京口ブルトレがヘッドマーク付きだったのに対し、併結列車と言う事からかヘッドマーク取付が見送られていたのが残念でした。
1980年9月撮影 2003レ 横浜
横浜で発車を待つ「出雲3号・紀伊」。先頭は当時の宮原区EF58のエース・53号機。53.10改正(1978年10月)から下り「出雲3号・紀伊」の牽引機は同じEF58ながら宮原区持ち(上りは浜松区のまま)に改められました。
その2年後の55.10改正で「出雲・紀伊」の牽引機は宮原のEF65PFに交替しています。
1985年1月撮影 2003レ 乃木―玉造温泉
電化された宍道湖畔をのんびりと走る「3号」。どんよりと曇った日が多い冬の山陰にしては珍しく太陽が顔を出しました。冬休みに山陰線の旧客、82系「まつかぜ」を絡めて久々に帰省した際の撮影。上の1980年8月撮影の「4号」とほぼ同じ場所での撮影ですが、線路脇に障害物が随分と増えています。
同じく1985年1月撮影 2003レ 淀江―伯耆大山
淀江〜伯耆大山を行く「3号」。先頭のDD51は非重連タイプの47号機。長年連れ添った「紀伊」はこの前年に廃止され「出雲3・2号」は単独運転になっています。
1994年8月撮影 1002レ 横浜―鶴見
いきなり時代が飛んでますが地元横浜近辺で再び細々と鉄道写真を撮り始めた頃です。
東海道貨物線の地下トンネルを飛び出す「2号」。貨物を狙っていたらやって来ましたが遅れていたんでしょうね。この頃になるとJR西日本受け持ちの「3・2号」には個室が連結されるようになり、すっかり風格も漂っています。客車2両目にもオハネ14-300が入っていますが増結時にはよくあったんでしょうか?
1997年8月撮影 1003レ 泊―松崎
ヘッドマークを付けたDD51牽引姿を一度は撮っておこうと珍しく遠征。定番の泊〜松崎を行く「3号」。原色DD51重連の牽く姿はやはり格好良かったです。
1997年8月撮影 1001レ
25形の帯が金になった事を除けば国鉄時代から変わらぬ姿・設備で走り続ける「1号」。と言うか食堂車の営業停止でサービスは国鉄時代以下に落ちたとも言えましょう。朝陽を背に受けて黄金色に輝く姿は美しかったですが…。山陰線のローカル列車で交換時に撮ったので、どこの駅か記憶が…。
1998年6月撮影 1004レ 横浜
雨に煙る横浜駅に進入する「4号」。なんでわざわざ雨の日に撮影したのか記憶が定かでありませんが、これはこれで晴れの日には無い風情があって良いかも…。編成がうねって見えるのは国鉄ゆずりの長大編成ならでは。
1998年7月撮影 1002レ 東戸塚―保土ヶ谷
東京に早朝着の「出雲」は「瀬戸」「あさかぜ」と共に撮りにくい列車でした。陽が長くなると金曜夜から徹夜してそのまま朝の散歩?がてら撮影に出向いたりしたのが懐かしい…。この頃は「出雲2号」に始まり「銀河」「瀬戸」「出雲4号」「あさかぜ」と短時間に続けて撮ることができ、効率が良かったですね。現在の状況を見ると何とも寂しいかぎりです。この「2号」、減車時の8両編成はブルトレにしては少々寂しいですね。
1998年7月撮影 1004レ 東戸塚―保土ヶ谷
同日、「銀河」「瀬戸」に続いてやって来た12両フル編成の「4号」。
デカパン・スノウプラウ付きの田端本所のPF若番の牽引です。検査切れ前の走行距離調整か、この時期東海道ブルトレ運用に頻繁に充当されており何度か足を運びました。結局この時がまともに「出雲」を撮影した最後になってしまいました。
1998年7月撮影 1002レ 東戸塚―保土ヶ谷
大分くたびれた印象のスハネフ14を最後尾に東京を目指してラストスパート。この数日後「出雲2・3号」はサンライズに生まれ変わり、寝台列車の歴史に新たな1ページを刻む事になります。

そして2006年、客車「出雲」廃止が決定しました。願わくばもう一度のんびりとお別れ乗車をしたいところでしたがスケジュールの都合で如何ともし難く、過去に撮ったフィルムの整理をしながら名残を惜しんでいました。

いつの日か新時代の魅力溢れる列車としての復活を夢見て…。


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