1980年8月2日 石打駅 深夜の饗宴
 
2004.8.2 Update 2017.8.1



1980年の夏、この年の10月改正で引退が決定していた上越国境のEF16の最後の活躍を記録すべく、8月1日夜から3日まで高校の鉄道研究会の先輩達と水上〜石打間に撮影に行きました。ここで紹介するのは2日(土)の22時半頃から翌3日の3時過ぎの約4時間半の深夜の石打駅上り線の賑わいです。
1日夜の水上駅のバルブ撮影に始まりほとんど眠らずにずっと撮影していたので、夕方から石打駅で仮眠を取って撮影に臨んだと思いますが、寝不足で朦朧としていたのかそのあたりの具体的な行動の記憶がありません。(^^;)

補機として旅客列車の先頭に立つEF16を撮影するには、当時の機材では昼間の臨急を除けば夜行列車を補機の解結作業が行われる水上駅か石打駅でバルブ撮影をするしかありませんでした。しかも補機は列車到着後すぐに解放されてしまう為、基本的には水上駅で下り、石打駅では上りを狙う事になります。

水上駅での撮影は独特のカーブした配線の為、どうやっても編成が切れてしまうのに加え、構内設備が障害になったり夜は水銀灯が逆光になったりと、なかなか厳しい条件でした。(水上の定番ポイント写真) それに比べ石打駅は広々とした駅構内の側線がファンに開放されていて、停車位置によっては少々暗い場合はありましたが安全かつ格段に良い条件で撮影を行なえました。今にして思えば黙認だったんでしょうが、改めて当時の現場の方々のご厚意に感謝です。

以下の写真ですが土曜から日曜と言うことで貨物の運休があったのか、当時のダイヤと比べると撮影した列車の数は若干少なくなっています。写真自体は他のページで紹介済みのものがほとんどですが、こうして時系列で並べてみることで新幹線開業前の上越国境の賑わいを少しでも感じて頂けるのではないかと思います。また、客車列車には14系「北陸」を除き荷物車が連結されていて、当時の夜行列車が新聞輸送や小荷物輸送の一端を担っていたことが伺えます。

記入してある時刻は1時間目ダイヤで見た撮影列車の定時の場合のおおよその発着時間です。例によって写真クリックで大きなサイズが別画面で表示されます。それでは、1980年夏の石打駅の夜へ出発〜。




22:04〜22:12頃 3770レ
石打駅上り方の撮影ポイントで私たちを最初に迎えてくれたのは、福米形のEF1611号機とEF64一般形の重連でした。
この頃から福米形EF16が大好きだったので、幸先が良い出だしに心が躍ります。

この頃の上越線は関越自動車道が開通前で、長大編成の貨物列車が昼間の特急急行を避けて夜間を中心に数多く走っていました。この3770レは車扱直行貨物ですが石打駅の長い2番線ホームを大きくはみ出してます。手前の線路は上り副本線の1番線で現在は線路が剥がされてしまいました。
夏にも関わらず背景のスキー場のロッジでしょうか、ポツポツと灯りが点いています。


22:04〜22:12頃 3770レ
停車時間があるので少しアングルを変えてもう一枚。正面扉の上や前燈にもつらら切りの付いた福米形は、EF16の中でもひときわ精悍で惚れ惚れします。

当時のダイヤを調べると、この3770レから夜の上りのゴールデンタイムが始まっていますが、当時は夜間の細かいダイヤは知る由も無く(当時の雑誌掲載のダイヤは長くても5時〜20時の範囲)、仮眠を終えて「そろそろ行きますか」って感じで撮り始めたのではなかったかと思います。夜行列車の運転停車の時刻は、時刻表で前後の停車駅から当たりをつけていたと思います。現在の情報時代から比べると随分行き当たりばったりだったなぁ…と思いますが、その分、その場に行ってみての発見や思わぬ収穫があったりして、それはそれで楽しかったですね。


22:45〜23:00頃 3886レ
ダイヤ通りだと上の3770レの20分ほど後に運用上はEF1628が補機でEF64本務の3680レがあったはずですが、なぜか撮影していません。運休だったのか本務機が3770レと同じ64だからフィルムの節約でスルーしたのかも知れません。今ならデジタルでそのあたりは気にせずいくらでも撮影できるところですが、この時代、高校生にとってフィルム代も馬鹿にならず泣く泣く撮影を見送る事も結構あったのです。
さて、3860レ(あったとすれば)の発車後、10分ほどしてEF15164〔高崎第二〕牽引の車扱直行貨物が到着。補機には先ほどのEF1611に続いてまたまた福米形のEF1612が登場です。2両しかいない福米形EF16が続けて現れ、一気にテンションが上がりました。ちなみに12号機は11号機と共にこの年の3月に長岡区から水上区に転属していますが、少なくとも2月には水上区に貸し出されていたので、長岡に戻ることなくそのまま転属になったのではないかと想像します。


22:45〜23:00頃 3886レ
同じく3886レです。到着〜補機連結〜発車の時間は列車によって差はありますが概ね6分〜10分くらい。この3886レは少々長く15分ほどの停車で23時丁度に発車です。トラや2軸の貨車を連ねた編成が、いかにも国鉄時代の貨物列車の趣です。


23:12〜23:49頃 荷2044レ
1番線にはEF5887〔高崎第二〕牽引の荷2044レが到着。上越線に1往復だけあった荷物列車ですが、ご覧の通りの短い編成の為、上下とも補機は付かずにゴハチが単機で国境を越えていました。この列車は40分弱のバカ停をし、所定では上り貨物750レを退避します。
ゴハチの右にチラッと見えるおみやげ屋の建物は今も変わらず駅正面に残るお弁当の「川岳軒」で、現在も越後湯沢駅構内で駅弁販売をしています。かつては石打駅でも駅弁の販売をしていて、深夜、それも運転停車の「鳥海」や「能登」でも立ち売りをやっていたそうです。(参考文献:「鉄道ジャーナル」1975年10月号)


0:10〜0:15頃 2092レ
日付が変わって今度は当時の新鋭EF651039〔宇〕牽引の高速貨物の先頭に長岡運転所のEF15135が付きました。所定では23時半頃に750レが荷2044レを追い抜いたはずですが、荷レを撮影していて間に合わなかったのか運休だったのか未撮影です。構内は夜霧で幻想的な雰囲気に。
このEF15135は長岡のカマですが、同区のEF16が全機水上に移動した穴を埋める形で補機仕業に就いていました。長岡区の補機運用が55.10改正まで残っていたのか記憶がちょっと曖昧でしたが、「電気機関車EX 30号」掲載の運用表でこの列車は長岡区の補機運用だと確認できました。


1:13〜1:19頃 2090レ・1:03〜1:44頃 672レ
右の1番線に1時過ぎに到着したEF15150〔長岡〕牽引の集配貨物672レの脇を、補機のEF1623を先頭にEF65PF牽引の(見えませんが)高速貨物2090レが先行します。 上の写真とほぼ同じ位置での撮影ですが、霧が晴れて雰囲気は大分異なります。
川崎製1次形EF15であるEF1623と13次形EF15(東芝製)の並びで両機にはパッと見それほど大きな違いはありませんが、よくよく見ると正面扉横の昇降段やデッキの形状、通風口の有無などの差異が分かります。150号機の正面扉はFRP製の物に交換されており窓部分がHゴム支持になっています。


1:03〜1:44頃 672レ
672レは2090レに続いて708M「佐渡8号」も待避し40分程のバカ停です。1:38着の「佐渡8号」到着前の36分頃に本務機EF15150の前に長岡区から水上区に転属したEF1576が連結されました。撮影していた時は引退間近のEF16ではなくEF15の登場に「なぁんだ、15かぁ…」とがっかりしてたと思いますが、本機はこの2週間ほど後の8月18日付で同区のEF16よりも一足先に廃車になっています。撮ってて良かった一枚。(^^ゞ


1:50〜1:58頃 3002レ「北陸」
672レの3分後、上り夜行列車群の先頭をきっていよいよ本日の主役、寝台特急「北陸」がEF5851〔長岡〕に牽かれ登場。これから1時間ほどの間に「天の川」「能登」「鳥海」と立て続けにやってきます。(全て運転停車)
補機にはこの日2度目のEF1611が付きました。EF16唯一の特急仕業と福米形EF16の組み合わせに大感激でした。

寝台特急「北陸」は昭和50年(1975年)3月改正で急行から特急に格上げ、上越線初のブルートレインとして20系で登場。牽引機は当初、長岡(運)のEF58P形限定となっていましたが、昭和53年(1978年)10月改正の14系化で牽引機の制限が無くなり高崎二区のゴハチになりました。その後、下りは長岡、上りは高二のゴハチ牽引になったと記憶していたんですが…EF5851は長岡ですね。(^_^;)
気になって調べてみると、自分で写した物や他の方の写真でも14系上り「北陸」を牽く長岡ゴハチを複数発見。どうやら私の記憶が間違っている可能性が高そうです。(この部分やたら鮮明に記憶に残っていたんですけど…)

しかしながら、この時期の「北陸」牽引機については当時のファン誌やダイヤ情報、そして「EF58ものがたり」などでも53.10以降は高崎第二区に変更とあるだけで、長岡ゴハチ牽引について触れた物は何故か見当たらないですね。当時の運用表があれば解決なんですが、実家にあった資料類も多くのフィルムと共に処分されて闇の中。そこで丁度この前夜に水上駅で一連の下り夜行を撮影していたので、今更ながら二日間のEF58の牽引機を確認してみました。

1980年8月1日(始発駅基準) 水上駅 下り
801レ「鳥海」
3001レ「北陸」
3605レ「能登」
803レ「天の川」
EF58 131,132,133のどれか〔高崎第二〕
EF58 105〔長岡運転所〕
EF58 51〔長岡運転所〕
EF58 174〔高崎第二〕

1980年8月2日(始発駅基準) 石打駅 上り
3002レ「北陸」
802レ「天の川」
3604レ「能登」
804レ「鳥海」
EF58 51〔長岡運転所〕
EF58 174〔高崎第二〕
EF58 105〔長岡運転所〕
EF58 131,132,133のどれか〔高崎第二〕

高二のカマは高崎で同区のゴハチと差し替えがあったかも知れませんが、取りあえず上下とも「鳥海」と「天の川」は高崎第二、「北陸」と「能登」は長岡運転所となっていました。
実際にいつからこの形になったか不明ですが、やはり昭和54年(1979年)10月改正の可能性が高いでしょうか?
ちなみに53.10改正時点では「北陸」と「鳥海」が高崎第二、「天の川」と「能登」が長岡運転所になっています。


1:50〜1:58頃 3002レ「北陸」
石打駅の広い構内をサイドに回って「北陸」をもう一枚。手前の線路は引き込み線で、1番線ホームの辺りが終端です。左端には次に到着する「天の川」の補機に就くべく機回し線で待機するEF1621の姿が見えています。
「北陸」は他の夜行急行などに比べ運転時間に余裕がある為か、石打での停車時間が少々長めになっていました。おかげでじっくりEF1611の雄姿を撮影する事ができました。 上空を流れる雲が構内のライトで浮かび上がっています。


1:50〜1:58頃 3002レ「北陸」
両機関車部分をアップで。毎夜、日常的に繰り返されていた光景とは言え、デッキ付の武骨なEF16とスマートな急客機のEF58の異種重連はやはり魅力的なものでした。2両合わせて大形のPS14パンタが4つ上がる姿が何とも言えません。
なお、福米形の11、12号機が長岡(運)から水上区に転属したのはこの年の3月20日付ですが、実際にはその前から水上区に貸し出され補機運用に就いていたと思われます。とは言え、他の水上区のEF16に比べれば福米形が「北陸」の先頭に立った機会は格段に少なかったと言えます。


1:50〜1:58頃 3002レ「北陸」
最後に正面気味にもう一枚。ヘッドマークが無いとは言え、普段貨物列車の補機仕業が中心のEF16が寝台特急の先頭に立つ姿は感慨深かったです。この「北陸」も2010年3月に「能登」と共に廃止となりました。
それにしても上野〜金沢という短区間の運転だった「北陸」が、寝台特急のパイオニアと言える九州ブルトレよりも長く生き残るとは、この当時は思いもよりませんでした。


2:05〜2:12頃 802レ「天の川」
「北陸」発車後5分ほどでEF58174〔高二〕に牽かれ上野〜秋田間の急行「天の川」が到着。補機には機回し線に待機していたEF1621が予定通り登場です。本機はEF1611と同じく屋根上のグローブベンチレータが特徴です。

この「天の川」も「北陸」と並ぶ上越線の老舗夜行列車で全車寝台という風格漂う編成でした。昭和51年(1976年)10月改正から急行のまま20系化され、「北陸」が14系化される昭和53年(1978年)10月までの2年間は同じ20系の特急と急行が上越線に存在すると言う何ともバランスの悪い状態でした。その後、「天の川」は昭和60年(1985年)3月の上越新幹線上野開業時に廃止されています。

20系急行格下げの象徴、カヤ21の前にスユ16が連結されているのが珠に傷ですが、それを除けば20系時代の「北陸」を想起させます。ここからフィルムがASA400のコダックのトライXからASA200の富士フィルムのネオパンSSSに変わっており、ちょっと露出が不足気味に…。(-_-;)


2:05〜2:12頃 802レ「天の川」
同じく「天の川」のEF1621とEF58174のアップ。発車準備が整い両機関車の運転席のライトが消されています。EF1621の種車のEF1517は川崎車両が製造したEF15の2両目で、昭和22年8月に落成しています。福米形のEF1611とEF1612も同じ川崎製EF15が種車ですが共に昭和23年製で、それらと比べると車体の高さ、側面エアフィルタの大きさが異なります。


2:32〜2:39頃 2080レ
およそ20分後、EF651050〔宇〕牽引のコキ編成の高速貨物が到着。補機にはEF1612号機が再び登場。構内のライトで浮かび上がった車体の傷みが、誕生時から板谷峠、三国峠と続く雪国での峠越えの厳しさを感じさせます。
本務機のEF65PFもEF15の後継として上越線向けに耐寒耐雪装備で登場したにも関わらず、結局上越の地には根付かずその任をEF64 1000番台に譲っています。
丁度、奥の3番線には下り803レ「天の川」が到着していてコキフの後ろにチラリとカヤ21の姿が覗いています。
所定だとこの前の2:17〜2:24くらいに3762レがあったはずですが未撮影です。上の「天の川」の写真で機回し線に次の補機の姿が見られないので、もしかしたら運休だったのかも知れません。


2:46〜52頃 3604レ「能登」
2080レ発車後8分ほどして今度は上野〜金沢間の急行「能登」が入線。補機は三菱製のEF1629で、川崎製以外のEF16はこの日初めてです。本務機は長岡区のEF58105です。 機関車次位のスニに続いてオロネ・オハネフ・スハネが4両と10系寝台がズラリと並び、その後にスロ62に旧客5両が続く編成はまさに往年の客車急行のイメージです。
左端にチラリと見えているのは給水塔で、石打から先が非電化だった時代にここで蒸機と電機の付け替えをしていた頃の名残です。


2:46〜52頃 3604レ「能登」
急行「能登」は昭和34年に東海道経由の金沢行きとして登場。昭和43年に一旦廃止となりますが昭和50年3月に上越経由の金沢行きとして復活し、その後信越経由となり、さらに489系電車化、碓氷峠の廃止で再度上越経由となるなど紆余曲折を繰り返しながらも夜行急行としてその名を残しましたが、遂に「北陸」と同じく2010年3月に定期運行が終了しました。一応、臨時として籍は残っている様ですが、北陸新幹線が開業した現在では運転される可能性は低いでしょう。

機関車次位はパレット車のスニ41。このカットだけ見ると荷物列車に見えてしまいます。分かりづらいですがEF1629の左には機回し線で待機する次の「鳥海」の補機となるEF1628の顔が覗いています。
  


3:01〜3:07頃 804レ「鳥海」
「能登」が発車して10分ほどで夜行列車のしんがり、上野〜秋田間の急行「鳥海」が到着です。上越線での夜行「鳥海」登場は意外と遅く昭和43年(1968年)10月改正でそれまでの急行「羽黒」の愛称を変更したものです。補機は現在も水上町に保存されている側窓4枚のEF1628で29号機と同じく三菱製です。本機は同じ側窓4枚のEF1624の運用離脱でこの当時、EF15一次形原形を彷彿させる唯一の存在となっていました。ちなみに本機も種車は三菱製EF15です。上越のEF16は福米から転属の11、12号機も含めて川崎と三菱製の一次形EF15でした。
誘導掛の誘導で本務機、高崎のEF58(切り抜きナンバー、旧タイプの電暖表示灯等から131、132、133のどれか)に連結するシーン。
 


3:01〜3:07頃 804レ「鳥海」
連結作業を終え石打駅構内で発車を待つEF1628。「鳥海」の停車時間は5分程と短いものでしたが、上り夜行列車のしんがりと言う事で気合を入れて複数カットを撮影しています。その分露出が更に不足気味で、大分疲れてきたのか同ポジションでの撮影ですが…。機関車次位にスニ41・スニ40・マニ50と3両の荷物車が付く堂々たる編成。連結時の衝撃によってか上の写真から比べると列車全体が少し後退しています。


3:01〜3:07頃 804レ「鳥海」
EF16、EF58共に運転席のライトが消されいよいよ発車時間が近づきます。ホーム反対の3番線には下り165系夜行「佐渡7号」707Mが到着し光の帯を作ります。その発車を見届けてEF1628とEF58は二つの汽笛を響かせモーターの唸りと共に闇の中に消えていきました。

石打駅ではこの後も早朝にかけて東京方面へ向かう貨物列車群が続くのですが、私はこの日の昼の撮影に備えてここで終了。駅の待合室で仮眠しました。



ここまでお付き合い頂きありがとうございます。

この日から37年の歳月が過ぎ、その間に上越線をめぐる状況は激変しました。新幹線の開業であれだけ走っていた昼行特急・急行が一気に消滅し、廃止を免れた夜行列車も徐々に数を減らしていき、2014年に最後まで残った寝台特急「あけぼの」が廃止され、上越国境を越える優等列車は遂に姿を消しました。

石打駅もスキー人口の減少に加え列車利用者の減少もあり、スキー臨が何本も運転されていた過去からは想像できないほど寂れてしまいました。峠の主がEF16からEF641000番台に替わってからも、しばらく引き継がれていた水上駅と石打駅での補機の解結作業もいつしか無くなり、今ではEH200が単機で牽引する貨物列車が通過していくだけになりました。賑やかだった駅構内もひっそりと静まり返り、構内にたくさん張り巡らされていた側線も剥がされ、単なる山間のローカル線の一駅になろうとしています。

近い将来、このページで紹介したような光景が石打駅で毎夜繰り広げられていたとは、その場に立っても想像することさえ難しくなることでしょう。そうなる前に写真や記録を通して、当時を知る人はもちろん知らない人の記憶の中にも、この情景を残す事ができればと願う次第です。(2017.8.1記)


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