1976年8月20日 山陰本線 米子駅
 
Update 2016.11.3.

子供の頃、夏になるとお盆の頃になると母方の実家のある島根県・松江市まで帰省するのが楽しみでした。記憶に残るなかで印象深いのは急行「出雲」に乗ったことです。多分冷房も無く、寝台車の窓を開けて夜の車窓を眺めたこと、翌朝、貫通路から走行中に見たDD54の逞しい姿に圧倒されたこと…。
残念ながらその当時の写真はありませんが、小学校高学年になりコンパクトカメラで写真を撮るようになった頃のものがありますので、当時の時刻表を片手に恥ずかしながら公開したいと思います。

まずは東京駅、1976年8月17日です。この日は「出雲」で母の実家のある島根県・松江まで旅立ちました。「出雲」が入線するまで間があるので他のブルトレを撮影。神田方から「富士」の入線です。この当時の東京駅6番ホームの夕刻は、矢継ぎ早に西に向けて旅立つブルトレ群とそれに乗る乗客、写真を撮る者と実に活気に溢れていました。牽引機はもちろんEF65P。EF65Pと言えばやはりヘッドマークを付けた姿に限りますね。
24系時代の「富士」。バックサインが飛んでしまって良く分かりませんね。「富士」はこの翌年10月に「あさかぜ」「はやぶさ」「出雲1・4号」と25形に置き換えられます。
新橋方から「出雲」が12番線に入線。この頃はまだ「いなば」が健在で「出雲」は1本でした。
この夏は無事に「出雲」の切符が取れたのでこれに乗って松江まで直行です。(この前年は「出雲」が取れず「あさかぜ2号」で岡山へ出て、そこから伯備線の各駅停車で米子まで…という強行軍でした。)

この頃の寝台特急の人気は絶大で、行楽シーズンや帰省シーズンになると1週間前の発売開始の前夜から駅で並ばないととても無理で、深夜数十人が緑の窓口や駅の日通の荷役場などで並んで夜を明かしてました。それでも「出雲」は取れない事もしばしばでした。飛行機やバスなんて選択肢はほとんど無かった時代です。
「富士」同様、こちらもノーマルな24系。隣の10番線には総武線乗り入れ前の横須賀線が停まっています。
「出雲」発車までの間に隣の13番線に停車中の「あさかぜ1号」をパチリ。夕闇に浮かぶナハネフ22の姿は実に優雅でした。この展望室から眺める夜景は最高でした。夏服の専務車掌の姿も凛々しいですね。
当時はコンパクトカメラでフィルムもASA(ISO)100クラスしか無く、ストロボ無しでは夕暮れ時はつらかったものです。ASA400のカラーフィルムが出るのは確かこの翌年くらい…。
いきなり8月20日の米子駅です。これは多分米子止まりの山陰本線普通列車524レで定時8時45分着。当時季刊だった鉄道ダイヤ情報の創刊号(1976年夏号)ではこの列車はDD54牽引予定で、ワクワクしてDD54を待っていたらDF50がやって来てとてもがっかりした覚えがあります。
DD54は小学1年生の時、帰省の際に乗車した急行「出雲」を牽く姿を眼の前で見て以来、その迫力と洗練された姿に子供心にすっかり惚れ込んでいたので何とか写真に納めたかったのですが…。山陰の主になるべく華々しくデビューしたDD54はトラブル続出で誕生から僅か10年余りで姿を消してしまい、結局その思いを果たす事は叶いませんでした。

この572号機はマン機関を搭載した500番台ラストの1つ手前。DF50は初の本格的本線用ディーゼル機関車で、スイスのズルツァー形機関(1200ps)を搭載した0番台とドイツのマン形機関(1400ps)を搭載した500番台とがあり、ディーゼル機関で発電した電気で直流釣り掛けモーターを駆動する電気式でした。しかし、その出力は出力の大きい500番台でもたかだか660kw。EF58やEF15で1900kwですからその非力ぶりは推して知るべしです。その後、DD51の成功で国鉄ディーゼルは機械式一辺倒になっていきましたが、近年になってJR貨物がDF200で再び電気式を採用したのを見て、技術の進歩を実感させられました。
DF50と言うと山陰や九州の500番台の印象が強く、四国の0番台、特に前面補強がされた姿はどうも今ひとつピンと来ず、食指が動きませんでした。(写真クリックで大きな物が表示されます)
181系気動車(キハ181-45)の上り34D「やくも2号」。益田始発の列車で定時だと9時25分着の27分発となっています。「やくも」はこの当時山陰地方では唯一のL特急で、気動車のL特急も「にちりん」1往復を除けば本列車だけでした。181系もこの頃はまだまだ新車のイメージでした。(写真クリックで大きな物が表示されます)
同じく上り「やくも2号」。この頃はガイドブック的な写真を撮りたくて形式写真もどきを良く撮ってました。コンパクトカメラでは走行写真は撮りたくても難しかった…と言うのもありますが。これはキロ181-12で4号車。(写真クリックで大きな物が表示されます)
同じく上り「やくも2号」。5号車キサシ181-9。80系気動車でも登場時の食堂車は181系と同じくキサシでしたが、編成全体のパワー不足で後に動力を組み込んだキシに統一されました。パワーに余力のある181系では再びキサシになっています。ちなみにキサシ181は「やくも」での使用を最後に引退しています。食堂部分の窓のところどころ降りたブラインドやちらりと覗くメニューが生きた食堂車であることを物語ります。(写真クリックで大きな物が表示されます)
50.3(ゴーマルサン)改正(1975年3月改正)で新設された東京〜米子間の寝台特急「いなば」がDD511040に牽かれて到着。定時だと10時55分。この頃は東京機関区担当列車以外のブルトレはヘッドマークが無く、魅力は今ひとつでした。(写真クリックで大きな物が表示されます)
同列車はこの後1978年10月の53.10(ゴーサントオ)改正で出雲市まで延長され「出雲3・2号」に改められます。東京〜名古屋間は紀勢線の寝台特急「紀伊」と併結なのは「紀伊」廃止時まで変わりませんでした。客車は14系でもちろんオリジナルの3段寝台。(写真クリックで大きな物が表示されます)
DD51573の牽く普通列車544レの脇をDE101058牽引の貨物列車が通過。時間は11時過ぎでしょうか。544レは浜田6時25分発、綾部から舞鶴線経由で東舞鶴に20時53分着のなかなかの長距離鈍行。DD51のナンバー部分の白帯が省略されているのは九州からの転属車でしょうか。(写真クリックで大きな物が表示されます)
上り36D「やくも3号」が到着。定時だと11時23分着です。1978年10月改正前なので、上り列車もまだ奇数号表示です。5分停車の間に岡山方に3両増結します。先頭のキハ181-44の前では増結作業の準備が手際よく進められます。(写真クリックで大きな物が表示されます)
岡山寄りからキハ180を先頭に3両の増結車両がソロソロと近づきます。(写真クリックで大きな物が表示されます)
しっかりと連結。先頭車同士で無い増結切り離しは気動車ならでは?ここから岡山までは堂々の11連です。(写真クリックで大きな物が表示されます)
パノラミックウィンドウのキハ581100番台の下り613D急行「ちどり2号」が到着。定時だと12時50分着で木次線・芸備線経由で鳥取と広島を結ぶ陰陽連絡の急行でした。このタイプのキハ28や58はスカートが設置された事もあり平窓タイプと比べると飛躍的に近代的な顔つきに感じたものです。

最後尾では4分停車の間に車内販売の備品の積み込み作業で大忙しと言った感じ。おねえさんと言うには少々ご年配の車販嬢の姿もなかなか味があります。夏休みの活気あふれるホームの光景を見ると、急行がまだまだ人々の重要な足になっていた事を感じさせます。真夏だと言うのに客室窓がみんな開いてますが、急行と言えども非冷房車もまだ存在した時代でした。(写真クリックで大きな物が表示されます)
DD51重連の貨物列車866レ。DD51の1000番台も新製間もない頃です。(写真クリックで大きな物が表示されます)
大阪から長躯やって来た5D「まつかぜ1号」。定時だと13時32分着で34分発で、まだまだ終点博多への中間点です(博多には20時51分着)。先頭はキハ82-11。

「まつかぜ」は昭和36年10月改正で誕生した山陰本線初の特急で登場当初は京都発でした。昭和61年11月に廃止になるまで25年間にわたり山陰本線のクイーンとして活躍しました。この頃は下り1号大阪〜博多と上り2号博多〜新大阪、下り2号、上り1号大阪〜鳥取間の2往復で、この博多行き編成はキロ2両にキシが入った豪華13両編成でした。末期には2往復とも米子止まりに縮小されキハ181系化されました。82系「まつかぜ」には子供の頃京都から松江まで乗車しましたが、揺れるは遅いはであまり良い想い出はありません。確かキハ82の一番前の席だったような…。(写真クリックで大きな物が表示されます)
2号車キロ80-13。キハ82と同時に登場した車両で屋根上の大きな水タンクがポイントです。(写真クリックで大きな物が表示されます)
3号車キシ80-21。床下にエンジンを2つ積んでいる為、水タンクを置く場所が無く床上に設置してます。そのため電車の食堂車とは窓配置が異なります。当然のことながら食堂は営業中です。
キシ80で食事もしたことがありますが、これまた揺れがひどくて大変だった覚えがあります。(写真クリックで大きな物が表示されます)
こちらは167両と、80系中最多量数を誇るキハ80(キハ80-74)。差し込み式のサボも懐かしいですね。(写真クリックで大きな物が表示されます)
福知山からの下り543レを牽きDF50 529が登場。定時だと13時53分着で14時05分発。終点浜田を目指します。この543レも福知山6時12分発で浜田に21時26分着と15時間以上走る長距離鈍行でした。隣の留置中の客車は60系でしょうか。普通客車列車と言えば旧客がまだまだ当たり前だった時代です。(写真クリックで大きな物が表示されます)
米子始発の上り22D「はまかぜ2号」が入線。先頭はキハ82-54。この年の10月から「はまかぜ」は鳥取、倉吉止まりになり米子には顔を出さなくなります。隣は14時01分発の下り33D「やくも2号」。
同じく「はまかぜ2号」。発車は14時30分です。181系のシャープなイメージに比べ、82系の顔つきは優しい感じです。(写真クリックで大きな物が表示されます)
九州から転属してきた若番DD51の24号機。重連総括制御が無いのですっきりした連結器周り。下り3番線なので時間帯的に543レの機関車交換作業か、最後尾に送り込み回送で連結するところかも知れません。(写真クリックで大きな物が表示されます)
キユニ17-19を先頭にした伯備線ローカル列車925D。定時だと14時57分着です。10系、58系、10系、55系と何とも見事な凸凹編成。各系列の車体断面の違いも良く分かります。この頃の伯備線ローカルと言えばこんなイメージでした。
下り21D「はまかぜ1号」が到着。定時だと15時16分着です。先頭はキハ82-22。(写真クリックで大きな物が表示されます)
先ほど到着した「はまかぜ」編成が「おき」に早変わり。一旦中線で待機、下り1025D「おき3号」小郡行きになるまでしばしの休息。(写真クリックで大きな物が表示されます)
そろそろ松江まで引き返そうと改札を出ると、米子駅構内外れにガスタービン試作車キハ391がポツンと留置されていました。数年前は今後の非電化区間のエースと期待され、NHKでも詳しい紹介番組が組まれていて、それを見て子供ながらとても興味をもったのを覚えています。
この車両が何の因果か平成まで生き残り、大宮で綺麗に化粧直しされるとは思いませんでした。現在は解体されて首だけになってしまいましたが…。(T_T)(写真クリックで大きな物が表示されます)
米子から835レに乗り、松江を目指します。この835レも京都5時26分発で終点浜田21時26分着の丁度16時間運転の長距離鈍行。16時18分に発車してすぐ、左手に米子機関区の扇形庫が見えてきました。DE15のラッセルヘッドのみ所在なげに佇んでいました。
この日の835レ機関車次位にはマヤ342007が連結され、検測が行われていました。間近でマヤを見たのはこの時が初めてで、物珍しさか先頭のDF50には見向きもせずにマヤを撮ってます。これは上り列車退避中のどこかの駅(たぶん荒島)で撮ったもの。
17時10分松江に到着。ここでもマヤを撮ってます。この頃はフィルムを節約してできるだけ同じ車両は撮らなかったりしてたので、DF50は撮らなかったんだと思いますが、今思えば何とも勿体ない…。(写真クリックで大きな物が表示されます)
17時19分、高架工事たけなわの松江駅で上りの「出雲」の発車を撮影。24系オリジナルの電源車マヤ24に荷物を積める様に改造を施したカヤ24が夕陽に染まります。(写真クリックで大きな物が表示されます)


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